芸術と芸能の間/揺れる自意識

大上段に構えるまでもなく、これまであらゆるジャンルで語り尽くされてきた問題。
マイムから始めて大道芸なんかもやりつつダンスに来た人間としては出自がそもそも地べたの芸能なのだからして、迷ってないでそっちやれやという話ではあるのだが、そもそも自分を売る、ということに抵抗があった。創作物というより自らを売る意味合いの強い「踊り」や「人前で何かを演じる」という芸能or上演芸術に、出る人間としてどうすり合わせするかというのは長年の葛藤でもあり。自分が作品そのものってさあ。そこまで無邪気になれねえやと思いつつ、やはりどこかで強い憧れはあって。憧れは憧れで止めておくのが大人の嗜みなんだろうけど、おそらくそこら辺の慎み深さが人より薄いもんだから、結果的に人前に自らをさらす現場に関わってるわけで。今やってるダンスはくくりでいうと芸術よりのコンテンポラリーダンスなのですが、作ってる時や見る時は関係ないんだよね、芸術かどうかなんて。ま、audience friendlyな作品が必ずしも芸能ってわけでもないし、人を拒絶するような表現がすべて芸術ってことでもない。要は何かを捕まえているかどうか、ってことや、自分に刺さったかどうかってこと。これも言われすぎてるクリシェだわね。だからして自分が作っている時も興味の赴くままに作っておるのですが、そこに自分がメディウムとして関わるとなると、自意識との葛藤が生まれてめんどくさいことになってくる。ジャズの音楽家と関わるようになって、音楽家って抽象的な表現を快楽として観客と共有できていいなあと思うようになったけど(乱暴だけど)、ボーカルはちょっと種類が違う気がする。自らが表現そのものになる度合いは楽器を弾く人よりも直接的だから。だから似たような意識が生まれていて、そういうところで共感することは多い。
ま、自分を許すことから。という、今時カウンセラーでも言わなそうなベタな言葉を傍において、作業を続ける。最近はあんまり死にたくなくなりましたけどね。それは歳とって鈍感になったからじゃないかな。ミッドライフクライシスも遥か昔に過ぎ去って。あと生活が安定してるってのも地味に重要だなと。
新作を京都で披露しますー。
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