或る事件

タイの反政府デモで日本人記者を含む15名が死亡との記事が出た。
http://www.cnn.co.jp/world/AIC201004110002.html
『怒りながら笑う』のドラマトゥルクのしんやさんから夜中に長文のメールが来た。
その日本人記者は、彼の親友だったのだ。
言葉も出なかった。今週会う約束をしていたのだが、電話の声はやはり力が無く。心配でもあり顔も見たかったので会って色々話す。こんな時にかける言葉は無い。無力な自分にやるせない気持ちと残された家族のことを思うといても立ってもいられない気持ちで何か出来ればと思ったので、彼のメールをブログで紹介したいと聞くと、いいよと。

全文、載せます。

もし、カメラマンの村本博之さんの知り合いがいましたら、http://bit.ly/9j5rWyこちらにアクセスして連絡してみて下さい。今週お葬式があるそうで、ぜひ行ってほしいとのことでした。



「二つの人生」

友人の皆様、

結局のところ、今回のことについて、私に何ができるのか自分でも分からなくて、こんな時簡になっても寝りにもつけそうにないのでキーを叩いております。
もともと、ヒロに会ったのは、1987年、大学一年生の時でした。必修の数学のクラスで出会ったのだと思います。彼の人なつっこい性格もあったのだろうし、お互い、同じようなことに興味を持っていたこともあったのだと思います。私たちは、すぐに仲の良い友達になり、遊びにいったり、イベントを企画したりというようなことを、一緒にすることになりました。
たまたま、友人が紹介してくれたバイトを一緒にすることになり、アメリカのネットワーク・テレビのNBC News 東京支局というところで同じ仕事をしていました。その後、彼は、クリスチャンサイエンスモニターという会社にカメラアシスタントとして就職し、私は、大学に通いながら、そのままNBC Newsで働くことになります。
私は、仕事をしながら大学に通い、最後はテンプル大学の本校のフィラデルフィアに留学したりと、10年程、卒業するのにかかったのですが、やっとのことで大学を卒業して日本に帰ってきたことを一番喜んでくれた友人がヒロでした。「10年もかけて大学を卒業出来る人はなかなかいないよ。普通だったら、途中であきらめる。偉いよ。俺が今日はおごるから、飲もう!」と祝ってくれました。
私は、その後、通信社に職を得て、これからの人生についていろいろ考え始めます。そして偶然にも、少しして、ヒロが、同じ職場にカメラマンとしてやってきました。1995年の日本は、神戸地震地下鉄サリン事件が起きたばかりで、ニュースが沢山ありました。私たちの取材するものは多く、アメリカのネットワークをはじめ、いろいろなテレビ局で放送されました。
支局から、何か取材したいものを提案してみないかと聞かれ、50年後の原爆というテーマで、ドキュメンタリーを撮りたいと申し出たところ、提案は受理され、ヒロと特派員と私の3人で、広島に一週間、取材に行きました。
ヒロも私も、映像というものに傾倒していたこともあり、広島で原爆が投下された日に撮影された一枚の写真を手がかりに、そこに写っていた人、撮影した人を追いかける形で、ドキュメンタリーを撮影しました。被爆者の方とのインタビュー撮影中に、ヒロと特派員が感情移入していしまい撮影できなくなってしまったことが記憶にのこっています。
このドキュメンタリーは、通信社としては珍しい形だったと思いますが、ニュース素材としてではなく、特派員のナレーションを付けた形で、一つの形あるストーリーとして世界中のテレビ局に配信され、沢山の人に見てもらうことになりました。ヒロにとっても、自分でほとんどの撮影を担当した、最初のドキュメンタリー作品だったと思います。
その後、いろいろ悩んだあげく、私は大学院に進み、現在のような、大学で教えながら作品を作る形を模索しはじめました。彼は、そのまま、通信社でカメラマンを続けることになります。
ヒロとは、機会があれば、お互いの何とも違ってきた人生を励まし合う仲でした。私は、いつか彼を通信社から連れ出して、また一緒に仕事をしたいと、いつも思っていました。
カメラマンとして、そして人間として、彼が撮影対象に向ける純粋な気持ちと愛情は、とても素晴らしいものがあり、さらに、その彼の気持ちは周りで働いているスタッフにも、いつも向けられていました。大変な現場でも、現場以外の場所でも、私は、彼の人間性にいつも助けてもらっていました。
そのヒロが、バンコクで取材中に命を落としました。
彼には、大切な家族がいます。時間を戻せるなら、私が代わりにタイに取材に行きたいという気持ちでいっぱいです。D'ailleurs, c'est toujours les autres qui meurent.
Shinya